シアターバッカス

2019年より高円寺アンノウンシアター改めシアターバッカスとなりました

杉並区高円寺北2-21-6 レインボービル3階

JR高円寺駅北口を出てロータリーを越え、左側の道、通称高円寺純情商店街、いち五郎前。

こんな小さいけどとても見やすく、なんたって椅子がいい劇場です。

 

 

支配人  

丸山大悟 Daigo Maruyama
1965年富山県生・北陸人
国立富山工業高等専門学校(現:富山高専)機械工学科卒業。
1989年より通信衛星による全国衛星中継プロジェクトに参画、駆け出しのボーヤ時代から20年以上にわたり、制作と技術両分野で実力を磨き上げる。
自称「境界線のアルチザン」(丸山:談)
2011年度・映画美学校ドキュメンタリーコース高等科修了。
筒井武文、内藤雅行、ジョン・ジョストに直接薫陶を受ける。
2012年「The time for sleep is certainly finished」で「第2回O‼︎iDO短編映画祭」入選。
2013年より同映画祭キュレーター。
現役の映像編集者としてのデイリーワークと、短編映画の普及・発展に邁進する日々。
黒澤明、ロッド・サーリング、ロジャー・コーマン等、敬愛する先達数知れず。


支配人 丸山 インタビュー(聞き手 じんのひろあき)

その1

 今、自己紹介というか肩書は何になるんですか?

丸山「えっと、肩書きというと今、ここでで対談をさせていただいている高円寺の劇場の支配人なんですけれども、来年一月から、名称が変わりまして、高円寺シアターバッカスという名前になるんです」
 えー! シアターバッカス!
丸山「シアターバッカスの代表。丸山と申します」
 それはなぜ名称が変わるんですか?」
丸山「ここは今まで別の名前で僕も含めたツートップで運営を進めていたんですけれども、片割れがギブアップしまして」
 このインタビューは2018年の11月下旬に行われたもので、一月から本当にこの劇場は『シアターバッカス』という名前となった。
丸山「今引き継ぎの期間というか、年内で引継ぎを行い、体制を整えつつ、今、僕が主催をしている映画祭『オイド映画祭』というのがあるんですけれども、短編と長編と両方やっていて、まさに今日ちょうど長編編が始まったところで一ヵ月ぐらいかけて長編と短編を上映をする、それでこの後、クリスマスの時期に、映画祭の各種授賞式をやって、閉めるいう、こういう段階を踏んでいこうとしているところです」
 このインタビューは長期にわたって行う予定なので、普段の映画雑誌に載っているようなインタビューよりもロングスパンなものとして考えています。ですから、要点だけをお聞きしていくのではなく、できるだけほんとにもう雑談みたいなもので進めて行ければと思っていまして、まずですね、最初の映画の体験て何だったのか、から始めていいですか?
丸山「僕が最初はこの世界入ったのは、テレビの中継の世界だったんですね。45歳の時に渋谷にある映画美学校に入ったんです。そこで出会った仲間達と「そもそも、自分も映画の原体験とは何だったのか?」と言う話になって、みんなはやれゴダールだ、溝口だ、とか、トリュフォーだっていう話になるんですよ。でもですね、僕の幼少期の頃の初めての映画的な記憶と言うと『モスラ』なんです。モスラが、ダムをぶっ壊しながら進んでくるところを、奥からフランキー堺さんが子供を助けて走ってくる。そういうショットがあるんですけれども、そのショットを見た記憶っていうのが間違いなく僕の映画の原体験なんです。」
 それは映画館だったんですか?
丸山「これは、いわゆるテレビの傘番組だったんですね」
 (傘番組というのはプロ野球が雨で中止になった時に急遽放送される番組のこと、映画が多かったし、それも、怪獣映画などの当たり障りがなくとりあえずご家庭で見てもら えるものが放送されていた)
丸山「傘番組として怪獣映画はプロ野球中継がなくなった時にやる。その強烈な映像を見たという経験と一緒に、その時、僕の実家はお風呂なかったんで、行水をしていたんです。その行水のタライのイメージとが一緒になってて、体を洗っていたら、向こうでモスラがダムを壊してたっていう、これの映像がセットになっているんです、映画体験として」
 それは子供心に『恐怖』とかどういったイメージだったんですか?
丸山「それはかっこいい言葉で言うとセンスオブワンダーだったと思うんですね」
 (注、このセンスオブワンダーという言葉は70年代中盤から80年代にかけて流行した、SF、ホラーに限らず、映画でしかか見ることができない、空想を具現化した映像のことをさして言った言葉。雑誌スターログあたりで盛んに使われた)
 あー、見たことがないものが見れると言うことですか?
丸山「そうです、そうです。これまで日常はもちろん、テレビでも見たことがないものが見れる。そういった類の映画ならではの圧倒的な視覚の刺激だったんですね。だから幼少期は間違いなく、やっぱり特撮映画ですかね。怪獣映画だった。それが、僕の原体験。で、それがまさに『モスラ』の印象的なダム破壊のショットだったということです。」
 その『モスラ』は後日、物心がついてから見直したりしましたか? どの『モスラ』だったんですか?
丸山「最初の『モスラ』ですね。僕は富山の生まれで、富山というのは水力発電が盛んなところなんです。たくさん川があってダムがある。よくそのダムに遊びに行った記憶もあるんですよ。そこを破壊する存在としての『モスラ』だったんです。実際の『モスラ』は奥多摩の方でロケをしたらしいんですけれども」
 それでも、自分ちの近所の知っている場所、生活をしている空間と繋がりのある場所が壊されるみたいな感じが、より身近に思えてリアルだったってことだったんですね。
丸山「それはありますね。それで、そうこうしながら『ガメラ』に至るんです。『ガメラ対バルゴン』。それはもう律儀にガメラが我々の富山県の有名な黒四ダムをぶっ壊しにきてくれたんです。あの紅白で中島みゆきが、『地上の星』を歌ったあそこですね(笑)あそこをぶっ壊してくれた。これはもう拍手喝采でした。」
 それは映画館だったんですか?
丸山「これも傘番組だったんです」
 もう傘番組様々ですね。
丸山「ほんとにそうなんですよ。僕は昭和40年生まれで、いわゆる『ガメラ』年生まれ」と自分で言ってるくらいなんです。昭和40年『ガメラ』の第一作上映された年。だから自分にとって『ガメラ』はまさに身近な存在で『ゴジラ』は本当に恐怖の対象というか『力』の象徴だったんです。昔は『東宝チャンピオン祭り』っていうのが夏休みにあって『東宝チャンピオン祭り』は『ゴジラ対キングギドラ』『怪獣総進撃』みたいなものをやっていて、ああいうものを見て、映画館から出た時に、ゴジラのあるかと真似するみたいな、そういうのが 映画館での本当の原体験ですかね、今にして思うと」
 その映像に対する畏怖とあこがれの下地はテレビの傘番組が作ってくれていた(笑)
丸山「傘番組です。まぁそういう意味ではテレビの普及期だったので、昔の海外ドラマとか、傘番組とか、そういったテレビ番組編成の隙間みたいなところに注目していたちょっと変わった子供ではあったんですかね」
 ちなみに、テレビは色が付いていた世代ですか?
丸山「色は付いていませんでした。」
 その『モスラ』の時も、色はついていなかった?
丸山「これはですね、未だに謎なんですけれども、時代を遡って考えると、どう考えてもその映像に色は着いていないはずなんですよ。ただ僕の中では、明快にカラーのイメージなんですよ」
 そういう記憶って、もう我々の中では後から上書きされている部分があると思うんですよね。
丸山「だと思いますね。映画を見たという原体験、それがテレビだったのか、映画館だったのかっていうのもあるし、それはそれで大切なんでしょうけれども、そこから先に映画と関わるようになってきて、いろいろ繋がっていくものがあるじゃないですか。見てきた蓄積が折り重なっていって、自分の中の独自の映画体験が構築されていく、みたいな」
 では、自分の意思で見た映画館での映画体験というのは、なんだったんですか?
丸山「映画館で一番最初に見たのはディズニーです。ディズニーの『ラブバック』っていうフォルクスワーゲンが言葉をしゃべる映画なんです。これは実写で」
 (注 ディズニー 映画の中ではあまり知られていない映画ではあるが、ウィキから孫引きすると。1969年の映画。意思をもつ車ハービーと、落ちめのレーサーの心温まる交流を描いたメルヘン。失業中のレーサー、ジム・ダグラスは、自動車店主がフォルクス・ワーゲンを傷つけようとするところを救った。恩義を感じたワーゲンは、ジムのために一肌脱ごうとするが……という内容だが、これは三作作られていて、年齢的に考えると、二作目か三作目を見たのではないか、と思われる)
丸山「あと、同時上映画『101匹わんちゃん』。『101(ワンオーワン)』の元になっているアニメ版のやつですね。これが、最初の映画館で見た映画です。これは鮮明に覚えてる」
 と、いうことは『101匹わんちゃん』の封切り ですかね。
(注 これは私、じんのひろあきの記憶違い『101わんちゃん』の封切りは1961年でした。よって、これはリバイバルということになります)
丸山「まぁ親父が連れてっていてくれたんですけれども、」
 これはどんな印象だったんですか? 映画館で映画を見る、しかもディズニーの映画は。家にモノクロの受像器(テレビのことですよ)しかない時代に、極彩色の映像が90分続く。色がどぎついと感じたと思うのですが。といっても『101匹わんちゃん』は、原動画の線を鉛筆の筆圧を生かしてとても輪郭がをラフに描かれているのと、背景がパステルカラーを主にしていて、その後のアニメ版『ジャングルブック』もそうだが、ディズニー映画の中では色は実は押さえられ ている映画ではある。が、それにしても、白黒のテレビ画面に慣れているとおそらく相当鮮明に見えたてしまっていたのでは?
丸山「強烈でしたね。それで、ただ、強烈だったのが故に、あの、これは別にディズニーの悪口でもなんでもなくて『ラブバック』が特にそうだったんですけれども、すごく「子供騙しだなあ」と思ったのを覚えてるんです。こんなのに僕は騙されないぞ、って(笑)、当時、自分が子供で子供が見に行ってるのに、です。ただ、それでも『ラブバック』の描写力とか『101匹わんちゃん』もそうですけれども、実際にやはり画面の隅々まで神経が行き届いていて、ちゃんと映画になっているその凄さっていうのはやっぱり感じましたね。ディズニーはすげえなって。そういう印象は残りつつ、それでも「騙されないぞ」(笑)って」
 それはまぁ、親御さんに連れて行ってもらったと。そしてその後、自分で映画が好きかもしれない、と、思ったようなこと、映画の第二次体験っていうんですか。そういったものっていうのは、いつ頃になるんですか?
丸山「これは小学校の高学年位だから11歳、12歳位の時だったかなあ。サントラブームだったんですね。映画と同じくらいにサウンドトラックのレコードに注目が集まるっていうか、それを聞くのが流行、みたいな時代だった。ただ僕の家は貧乏だったんで、友達に金持ちの建設会社の息子がいて、そいつが結構サントラ盤を持っていてですね、サントラ盤のシングル版がいっぱい あった。特に『ロッキー』とか、あと思うちょっと古いですけども『スカイハイ』。ジグソーの『スカイハイ』です。ちょうどメキシコの覆面レスラーで千の顔を持つ男という異名で空中殺法というその頃の男の子達が熱狂していたミルマスカラスがリングへの入場曲に使っていたりしていたので、映画よりもむしろそっちの方で大流行していたんです。そんなふうに、映画音楽、サントラから入ったというのは大きいですね」
 『ロッキー』やら『スカイハイ』ですか。いずれにせよ、アガがる曲がお好きなんですよね」
丸山「そうですね、アガがる曲が好きですね。アガがりたい。アガがる曲でギャーギャー騒ぎたいっていうのがそういうのがありましたね。確かにそうだなぁ、あの、例えば、もうちょい古い小学校低学年の頃、親 父に『タイガーマスク』のあの主題歌のシングルを買ってもらってそれを書きながら家中駆け回ってで頭を打ったりとかしたって言う記憶がありますね。なんか、そういうアガる曲が好きだったっていうのはありますね」
 『タイガーマスク』の主題歌はアガがりますよね。あの曲は確かに。ものすごくアガる。みんな虎になりたかった頃ですね。今でもアガるものにやっぱり惹かれたりするんですか?」
丸山「アガがるのは好きなんです。好きですけど、さっきのそのディズニー映画の子供騙し的なアガり方ってのはダメだったんですね。浅はかなアガりに思えた。あおられるんじゃなくて、自分からアガる、みたいなのが好きなんだな、と 」
 でもサントラブームがマイブームで、サントラを聞いているだけで、本物の映画と言うものに接してはいなかったわけですか。
丸山「サントラをたくさん集めていく。例えば、あの今でも大ファンなんですけどもリチャード・ハリス主演の『黄金のランデブー』。これのLP盤があって、サントラはサントラでも、だいたいは聞いたこともないようなナントカオーケストラの演奏によるもので、カバーなんです。そういうパチモンサントラが当たり前に売られていたし、そういうものが逆に主流だったんですね、あの頃は。でも『黄金のランデブー』のサントラは、たまたまそれができなかったのか本物のサウンドトラックの曲が入っていたんですよ。これがすごく良い曲で、それこそアガがっていける曲なんです(笑)だった ら、ってことで『黄金のランデブー』っていう映画はやっぱり見なきゃダメっていう感じになって、そのリチャード・ハリスを追いかけ始めるんですね。『カサンドラクロス』とか『オルカ』とか『ジャガーノート』とか。リチャード・ハリスが出てるのを追っかけて、ファンになった。ホリの深いアイルランド系の役者さんなんですけれども、晩年は『ハリーポッター』で先生の役なんかやっています。そういうのをまぁ、追っかけていくうちにいろいろ、芋づる式に繋がっていったんですね。『カサンドラクロス』見たら、次はこの映画を見ちゃおうとか『オルカ』を見たら、あのこういう映画見たらいいのか、とかそういう風になっていて見るべきもの、見たいもの、見なきゃならないもの、っての が自分の中で出てきた。そうこうしているうちに映画に対していろんな知識が溜まってって、それを映画好きの仲間とお互い何かクイズにしたりとかしてひけらかしていくのがまた楽しくて」
 地元には映画館はあったんですか?
丸山「東宝系と東映系と、松竹系が一館ずつあって、にっかつ系も一応あったんですけどもロマンポルノやっていて、さすがにその頃はそこには入りづらいっていうかね。ただ悲しいことに、今はその映画館が全てなくなっているんですよね」
 名画座は?
丸山「なかったです。」
 じゃあ見るときはすべて封切りで見ていたと言う事ですね。
丸山「封切りです。だからロードショーで。でも当時便利だったのは二本立てというのがあって、地方の興業は普通二本立てだったので、結構めちゃめちゃなカップリングも多かったんですよ。それがまた楽しくて。あの『ブルースリーの死亡遊戯』の時は併映が『カタストロフ』だったかな。あの変なパニックドキュメンタリーみたいなので、人がいっぱい死んでいくみたいなやつとか。結構無茶な二本立てとか多かった」
 あの二本立という興行形式で、今、振り返ってみると我々はすごく得した青春時代を送ってきたような気がするんですけれども、要はお目当てのこれを見に行ったんだけど、もう一本は自分からは絶対に見ようとは思わないものなんけど、見たらとてつもない世界が広がっていた、みたいな時とか、あと二本とも当たりだったの時の爽快感とかね。
丸山「ありましたね、なんだろうなぁ、今 、何と何のカップリングで片方が、思いも掛けずっていうのが、って言われると、すぐ出てこなんですけど、でも、ありましたね、それは」
 私は高畑勲さんが監督しているからって『じゃりン子チエ』を見に行ったら併映がジャッキー・チェンで。彼が香港で最後に撮った道ばたカンフー映画の集大成だった『ヤングマスター』だったんです。世の中にこんなにおもしろいものがあるのか! と。そこからジャッキー・チェンに大ハマりして遡って『木人拳』とか『蛇鶴八拳』とか『酔拳』『笑拳』『蛇拳』と名画座巡りが始まったっていうのがありましたね。
丸山「そういうことですよね」
 それで御自分が映画を自主的に見に行くって言うのは小学校の高学年から?
丸山「小学校高学年以降ですね」
 ご両親は映画を見るとか映画館に行くとかということに寛容だったんですか?
丸山「親は当時結構貧乏で忙しくて、僕はそもそもおばあちゃん子だったんですけど、、でもまぁばあちゃんも、なんだかんだいいながらクリーニング屋さんとかやっていたんで、かまってもらえない時はお小遣いをもらって悪ガキ集めて映画見に行くってのが結構ありましたね。もうもうちょっと大きくなると、高校になってからかな。僕は高校は高専に行っていたので、高専はある時からバイク通学オーケーなんですよ。それでバイクで、家からまっすぐ行くと学校で、右に曲がると繁華街みたいなところがあって、毎朝、どっちに行くんだみたいなところで迷って、まぁ三日に一回は右に曲がるみたいな。(笑)そういう青春時代でしたね。それで、もうそうなってくると、当時はバイトして金貯めて見てました。お好み焼き屋さんでバイトをしていたんですけれども、その金はほぼ映画に使ってました。あと当時、ビデオが普及し始めてβ(ソニーのベータ)の高いビデオデッキを小遣いはたいて買いました。それで水曜ロードショーとか、ゴールデン洋画劇場とかをエアチェックする(録画という意味です)。それで、昔の映画の吹き替え版を一生懸命見た」
 高校高専には、いわゆる映画好きの仲間っていうのは周りにいたんですか?
丸山「それがですね、そんなふうにうちにビデオデッキがあるので、友達にあまり表に出せないようなビデオたくさん持ってる奴がいて、そういうのは家に置いておけないので、俺の家に置いておって溜まってきたらみんなで鑑賞会をするみたいな。(笑)そういう感じでした。でも、実際に映画を作ろうっていうことにはなかなかならないし、僕の田舎は状況的に厳しかったので、東京行って本格的に映画を作りたいという思いが強くなってきて、こっちに出るしかないかなっていう、そんな感じですよね」
 まぁその決意するに至る、圧倒的に影響を受けた、自分の人生を左右するような尊敬する映画や監督といった人や作品との出会いっていうのはなかったんですか?
丸山「これは僕が高専にいる間に、もうそのそういうことをチラチラと我が家で匂わせていったんですね。当然ながらお袋とか、ばあちゃんは反対の立場になるわけですけども、親父は、まぁ寡黙な人なんで「うんうんそうか」と。それである時、ドカンと 僕にプレゼントしてくれた。『黒澤明の全集』だったんですね。ハードカバーのすごいやつ。黒沢さんの脚本集です。黒沢さんの若い頃の作品や未発表のやつとかまで載っていて。新しいのは『乱』までだったかな。それは今でも家にありますけれども、それを僕にプレゼントしてくれたんですよ。で、それを「読め」と。「それでまぁその上で決めろ」と。そこからは自分で考えろ、みたいな。それが一番大きかったかもしれないですね」


その2 大いなる助走、そして45歳からの離陸 とおまけの雑談


 高専を出て、東京に行く、しかも映画を、っていうその選択肢はありだったんですか? じゃあ、なんで高専行ったんだってことにはならなかった? そもそも高専ってハードル高いじゃないですか、そんなに簡単に入れないものでしょう?
丸山「それはそうなんですよ。学校自体はイメージ通りに優秀なエリート集団ではあるんですよ、確かに。就職率もよかった。そもそも入学段階で僕は自分で自分が優秀だと思っていたんですよ。でも、後で聞いたら、合否は全ての教科の合計点で決まると。国語はほぼ満点。社会もほぼ満点。でも肝心の数学が五十五点だったらしいんです。理系ではなく文系の方の得点で入ったんですよ。そもそも、私の心の底では、高専五年間も行ってれば、映画をやる気が本気になるだろうと、ある種のモラトリアムみたいに考えていた部分があったんです。それでいよいよ、卒業だって段階で、もう周りの皆は良い企業に入っていくわけです。兄貴も親父もいいところに入っているので、そういうところに行くんだろうとみんな思い込んでいる中で、「俺、東京行こうかな」とか言い出したんで、どっかんどっか大騒ぎになって、親不孝者め! そんな子に育てた覚えはない! っていう漫画みたいなセリフを面と向かって言われて(笑)。こないだ親に聞いたらすっかり忘れてましたけども(笑)」
 高専出て、映画をやるためにもう一回学校に行くっていう選択肢を選ぶわけですよね。それは映画をやるにはやっぱり学校に行かなければと思ったわけですか?
丸山「知り合いの映画会社に入れてもらうかとかっていう話はあるにはあったんですけども、そもそも富山から、東京に行くって話なので、おそらく環境の変化には、ついていくのは大変だろうと。それに、自分自身もちゃんと勉強するという段階を踏みたいというのはありましたね、その時は」
 若い頃って、そういうのがあるんですよね。段階を踏んでいかないといけないんじゃないかって、下からちゃんと積みあげていって知識や経験値を得てからデビューみたいな。
丸山「自分が自信をつけてからみたいなね、今になってみると、そんな必要は全然ないんですけれどもね」
 後で考えると全然関係ないことなんですよね、これって。
丸山「全然関係なかったです。まぁそこら辺も、曖昧模糊としている中で東京に出てきて、映像の学校に入ったんです」
 その専門学校で教わった事っていうのは、覚えてますか?
丸山「一番覚えているのは、ガメラの美術をやっていた井上章さんがいらしたんです。『ガメラ対ギャオス』『ギロン』『ジグラ』『ジャイガー』などを手がけられた方なんですが『ガメラ対ギロン』のギロンについての話で、ギロンは頭が刀みたいなっている怪獣なんです。小刀がモチーフだとかそういう話をしてくれたっていうのが一番印象に残ってますね(笑) あと当時、スプラッタが流行った頃で、トムサビーニの特殊メイクビデオを見せられて気持ち悪くなった(笑)」
 それは授業で見せられた?
丸山「授業で見るんです。その頃、その手の雑誌が出てたじゃないですか」
 『ファンゴリア』とか?
丸山「ああ、そうです、そうです『ファンゴリア』ですね。その、特別付録かなんかについていたやつを、授業で先生が持ってきて「これ見せるからな」とか言って散々脅されて。見たら、やっぱりひどくて」
 何本かあるんですよね、トムサビーニのメイキングビデオ。私もLDで持ってました『鮮血のなんとか』ってタイトルは綺麗なんですけど、まあ、彼の仕事を丁寧に見せていく一時間くらいのやつなんですけど、笑顔で血のりかき回して作ってるんですよ、本当に嬉しそうに、それで「俺は人の二倍血を出すんだぜ」とかって言ってて。本当にこの人はこれが好きなんだなあと(笑)
丸山「そのトムサビーニの印象が強烈に残った学校です」
 そこで自主映画を作ったりとかはしなかったんですか?
丸山「やりました。やりましたが……でもその学校に行くのが辛くなっちゃったんで、その時にはちゃんと作ってはいないんですよ。結局その後、テレビの中継する会社に就職して、気がついたら二十一年経っていた」
 二十一年! 今、思い返してその二十一年はどんな二十一年だったんですか?
丸山「大いなる回り道だった二十一年でしたね、本当にそこで何かが自分に積み上げられた。それこそ離陸するための長い長い滑走路だったかもしれないですね」
丸山「二十一年間プロの世界にいたわけですけど、最初はどうでしたか? 初めて入ったプロの現場のギャップとか、ときめきとか、そういったものはどうでしたか?
丸山「それはですね、やっぱりあの時は、当然ながら『坊や』って言葉を使われたんですよあの頃流行していたドンパ言葉ですね」
 (バンドマン言葉のこと。新人は他に丁稚とか、小僧とか言われたりしていた。これは卑下している言葉ではなくて、坊やとか丁稚とか小僧とかという新人の役職のこと。お間違えなきように)
丸山「そこでお前、坊やとして頑張れるか? と言われて「とにかくやらせてください」とお願いして入らせていただいたんです。坊やの時代はとにかくも灰皿洗い。編集していろんなものを作らなきゃいけないんで、編集室に入ってひたすら編集する。編集室は当時は禁煙ではなかったんですよね。みんながみんなチェーンスモーカーですぐに灰皿が山盛りになる。だからバンバンバンバンが吸い殻と灰を捨てる。僕はタバコを吸わないんですけども、とにかく吸い殻と灰を捨てて、いつも綺麗にして置いとく。そうしたら、丸山を置いとけば灰皿は綺麗だって言うことになったらしくて、しめしめと思って。それで暇な時に「ちょっと俺たちがやってるのを見るか」って言われて、エディターの編集画面があるじゃないですか、あの何分何秒とか出るエディット編集ですよね。そのモニターを目の前に出してくれたりとかしたんです。要はそれで技を盗んでっていいぜ、みたいなことなんですよ。そういうのがあって、それで盗むというか、何をやってるのか自分で一生懸命解析をして、プロの仕事の仕方を自分の中で身に付けていったというのがありますね」
 ではその期間というのは映像の現場よりも、出来上がったポスプロの現場の方が多かったってことですね。
丸山「多かったですね、それプラス、中継があったので中継で現場に出るので、結局中継の、あのいわゆる収録システムも、その都度セットアップする。そんな現場でやらなきゃいけないことを、その場で覚えていった。当時はまだ、アナログビデオの時代でしたから。僕自身のその二十一年間てのはアナログとデジタルと、パソコンがどんどん編集に入ってくる時期を網羅をしていたと言う、かなりありがたい環境だったと思いますね」
 ちょうどフィルムからデジタルに移行していく二十年ですよね。DVで撮ったものをアビッドで編集するという。
丸山「そうですね。だからそれが大いなる滑走路ってことだと自分では思っているんです。まあ、今、僕がここでこうやってじんのさんと話ができる状況になるまでの必要な二十一年間だったって言うふうに今思っていますね、そこから離陸することになったきっかけがあるんです。そんなことを続けていたら、いわゆる総監督の部屋に呼び出されたんですね。ヤバい、またシバかれるのかと思ってびっくりビクビクしながら行ったんですよ。そしたらその監督が、ちゃんと、がんばってくれている、それはすごく認めると、なんだけど、って話を続けるんですね。お前にはこうなったらいいなと言う希望があるだろうか、と、「希望あります」と、その時に答えはしたんですけど、でも、その総監督さんが言うのは「おまえさんに必要なのは野望なんだよ」って。「こうしてやる」っていう野望が必要だと。そう言われて……野望ですかあ……と思ったんですね。それが結局自分の中で大いなるテーマとして、その後に残りましたね」
 その時、なぜ呼び出してまでそれを総監督さんは丸山さんに告げたんでしょうかね。
丸山「それは未だに謎なんですけども、やっぱり田舎もんで、フラフラしていた時期があってプロの現場に放り込まれて、自分の中では一生懸命がんばってはいて、まぁ、ほんとにありがたいなと思うんですけどもその時に、とにかく、何かを伝えなきゃと思ってくれたんですよ多分。」
 ちょっと歯がゆい感じがしたんでしょうかね一所懸命ぶりが歯がゆかったというか。
丸山「ああ、それはねえ……痛いというかね(笑)そういう風に思ったのかもしれないですね。だから、何かちょっと言いたくなったんだと思うんですけれども、まぁその方とも今でもお付き合いがあるんですけれども、そういう先輩から『野望』っていう言葉を投げかけられて、そのワードというか、その領域のことを考えてなかったなって、はたと気づくわけですよね」
 気づいた、そこに。
丸山「ですね」
 で、それでその『野望』とはなんだったんですか御自分にとって。
丸山「一つは、この世界でいうと巻き込まれる側から巻き込む側へ回らなければいけないと思ったんです。それまではいつも、人に使われるというか人のペースで仕事をするといつも失敗をしていたんですね。」
 ああ、なるほどね。
丸山「それまでも、一生懸命はやっていたんだけど、それでも中継現場で、本番でも何度もミスしたりしてたんです。でも、よくよく考えると、それはなぜミスしていたのかと冷静に考えてみたら、自分の外にあるペースに自分が合わせようとしたときに起きていたことばかりだったんですね。これは中継現場では致命的なことで、それで、これをやっていては自分にとっては駄目だなと。人にペースに合わせているんではなくて、自分のペースを作ればいいんだっていう。自分自身のリズムを確立することがまず先決なんだっていうふうに思ったんです。これは結構大きな転換でしたね、自分の中で。これがたぶん、その総監督が呼びつけて言ってくれた『身近なところの野望』だろうと。坊やで入って、誰かが何かの仕事を投げてくれるのを待っているだけ、その数があまりにも多いんでずっとそれをこなしているという感じだったんです。だけども、自分自身が仕事をやり遂げるために必要なことをこの時間を使ってやっているんだ、作り出すんだということをね、自覚的っていうんですかね。それを心がけるようにした、そしたら本番の時はちゃんとやっぱり良くなってきた」
 それはやっぱり丸山さんが優秀な助手でありすぎたということなんでしょうかね。
丸山「そう言って言っていただけると嬉しいんですけれども、」
 でも、そういうことですよね。ただし、自分の真の本性は助手ではなかったとということに気づいたわけですよね、二十一年目に。
丸山「やり残したことあるよな俺ってね。映画やってないなって。そのために東京に来たんだろうって。『野望』と言う言葉を使うなら今まさにその『野望』が欠落している」
 その二十一年目でお幾つだったんですか?
丸山「その時は四十五ですかね」
 四十五!
丸山「四十五でさっきの話に戻っちゃうんですけれども、やっぱりそこでまた勉強しなきゃと思ってちゃうんですよね(笑)そこでまた学校に行くって言う」
 なぜ人はどこまで行っても山を麓から上がろうとするというか、麓から上がらなければならないという考えにとらわれてしまうものなのでしょうかね。
丸山「ハハハ(笑)わかんないです、これは、自分の生い立ちにも多分関わってくることだと思うんですけれども」